葉木神楽本屋敷神楽岩奥神楽樅木神楽
 葉木神楽

一、神楽の由来
 室町時代の初期明徳四年(一三九○年、応年元年)阿蘇家の支配下にある時、葉木神社は建造されたものである。
 明徳四年は五家荘が初めて世に知られた年で、平家が住みついてより二百年経った時点である。祭神は武盤竜命で祭礼は十月十七日でこの日に葉木神楽の舞が奉納される。古老の言によると三百年以前より伝わったといわれ、葉木神社が建造されてより三百年経った時点、即ち、江戸時代の中期貞享年間(一六八四年)と考えられる。もともと宮崎県岩戸神楽の流れをくむもので、昔は京丈山〜目丸山のルートを経て物資の交流が盛んであった矢部地区の事を考えると、高千穂との接近も何等不思議ではない。


昔は三十三種類あったものが、現在では二十四種類が残っている。
 使用道具は太鼓、面、笛、鈴、刀、扇、御幣等で、着衣は黒色の袴と白の上衣長袖、その上にドレスの絵羽織、頭に鳥帽子と赤の鉢巻姿である。この舞には鈴、扇、刀、御幣等を持ってそれぞれ太鼓や笛のリズムによって舞われテンポも早い。一時中断された事もあったが保存会の方々により復活され現在に至っている。なお神楽には舞と踊りがあるが、葉木神楽は「神楽の舞」といわれている。葉木神楽の舞は神に対する奉納が主流をなすもので、昔は神官の資格のないものは、舞う事は出来なかったと伝えられ、それだけ神聖なものとされてきた。又昔は四方を御幣で囲いその中で奉納舞がなされてきたが、その囲いの中へは女性は一歩も立ち入る事が許されなかったという。もちろん、五穀豊穣とか生存に対する感謝の願いも込められて来た事は言うまでもない。
二、神楽の時期と場所
 
 昔 旧十月十七日
  今 旧暦十月十七日(11月第二土曜日)   葉木神社
      ※奉納日が前後する可能性があります。

三、神楽舞の歌
神楽にはそれに伴う歌があるが、この舞には歌だけのものと、歌に神楽が附随するものとがある。
歌だけのもの
(1)板起し (2)安長御小屋の歌 (3)御小屋誉の歌
 歌に舞が付随するもの
(4)膳の歌 (5)大神 (6)一神楽 (7)稲荷の歌
(8)地割の歌 (9)将軍殿の歌 (10)大刀柄の歌
(11)目小面の歌 (12)鬼神の歌 (13)御神楽の座歌
(14)立歌

文化財保護委員 山本文蔵 (記)

葉木神楽本屋敷神楽岩奥神楽樅木神楽
 本屋敷神楽

一、神楽の由来
 大明神は県追小川縦木線の本屋敷の小高い所にあり本屋敷を一目で見られる大変眺めの良い所で、熊本、小川、五家荘、宮崎と歩いた中継地点とも言える所ではなかったかと思われる。そこには樹齢数百年というチチャの木が一本あり、杉は絶えて株だけが昔を偲ばせている。
 何時の頃より神楽が始ったのか詳細ではないが寛永六牛(一六二九年)のや旗や、明和六年(一七六九年)建造の地蔵堂がある。
 本屋敷部落の坂田さんの話によれぱ明治の末から大正の初期の頃青年頭の故川田彦次郎氏が神楽を後世に残さなければならないと伝授養成されたという。その時の伝授者は、故田上未熊氏太鼓、藤田政彦氏がシンバル、故坂田猛氏が笛で舞子は八歳から十歳の男で本屋敷地区の子供でなければならなかった。
 昔は舞子の資格にもきびしい制限があったと伝えられる。しかし、現在は過疎でそんなこともなくなり、舞子は小学生になっている 昔は旧十一月十四日、十五日に奉納され、なかでも十五日は六時間という長い時間奉納され途中まちがえると一回(三回舞う)新たに加わるというほどのきびしいものであった。
 今では毎日の仕事が忙しい為十一月第一日曜日に奉納する事になっている。舞子は音楽に合わせて左より回って三回、次に右より回って三回舞う。これが一回でこれを十二回舞う(約六時間かかる)

二、神楽の時期と場所
  昔 旧十一月十四日夜、十五日六時間 大明神
  今 十一月第一日曜日とその前日

三、神楽の構成と服装
  舞子 二名(八歳〜十歳の男子)
  楽器 太鼓一名・笛一名 シンバル一名
  楽組 白衣 黒の烏帽子
  舞子 赤衣 金の烏帽子

文化財保護委員 藤井 渡(記)



葉木神楽本屋敷神楽岩奥神楽樅木神楽
 岩奥神楽

一、神楽の由来
 岩奥神社は種山若宮神社の分神と伝えられ御神体は大山舐命(山の神様とも言う)で、分神の時代は江戸時代の末期頃とも言われるも詳細は不明である。
 神楽は明治四十三年頃甲佐町の神官赤星氏により伝授養成されたという。その時の伝授者は森山時男、森崎盛義、岩村進、森本又男氏の四者で森山氏(現在八十一歳)の十二歳頃であった。
 岩奥神楽はもともと肥後神楽の流れをくみ伝統は頗る古いが起源は詳細ではない。肥後神楽の由来は阿蘇家が国造りとして肥の国に勢力を得るに及んで阿蘇は肥の国文化の中心地として繁栄し、官司舞として発祥した。神楽が農民と連携を深めその内容の間に普及するに至った。それ以来、村の若者の間にも舞われ神楽は祭と共に関係を保ち神楽を通して神社崇拝の実を示し今日に至った。又神楽が隆盛を極めた一つに各地区の神社が社家神楽として、神楽方を養成したのも発展に起因したとも伝えられる。尚肥後神楽は昭和三十五年四月二十二日、熊本県重要無形民俗文化財として指定を受けている。

二、神楽の時期と場所
 
 旧六月十五日、旧十一月十五日、岩奥神社

三、神楽の構成と服装
 舞姿は上衣が青又は紫色に緑色の袴、白襷姿で頭に鳥帽子をかぶり、手には剣、鈴、御幣等をもつという。
 舞子 数名
 楽器 太鼓一名 笛一名

四、踊
(1)式神楽(三座神楽) (2)真栄木(手草の舞)
(3)剣弓 (4)二剣 (5)長幣(四すい)
(6)宝剣 (7)羽々天 (8)神宜歌 (9)四剣(八剣)
(10)四方拝(前神楽)(11)国津(二天の舞)(12)地鎮の舞

 岩奥に伝わったものはこれ位いであるが、この肥後神楽は必ずしも岩戸神楽と没交渉であるとは言えないが、肥後独特の神楽であることを附記しておく

文化財保護委員 山本文蔵・喜代門徹昭〔記)


葉木神楽本屋敷神楽岩奥神楽樅木神楽
 樅木神楽

一、神楽の由来
 平安時代の末期(1185年頃)壇の浦の戦いに破れた平家は逃れ逃れて宮崎県の椎葉村に住みついた。追手の那須大八郎と鶴富姫との非恋物語は、ひえ搗き節にも唄われている。鶴富屋敷から耳川の上流に椎葉村大字向山があり、又の名を那須と呼び、熊本県の五家荘、特に樅木部落とは山一つ隔ててはいるので、昔から交流が深く、或る時代には物々交換の要所とされ現在でも樅木部落にはお寺がないため、那須からお坊さんを呼んでいる。
 高千穂かぐらが元祖だといわれる樅木かぐらも、高千穂から那須へ、那須から樅木へ伝わったことは容易に考えられ地元民もそう信じている。
 でもいつの時代から、誰が、ということになると聊か定かでない。
 古老たちの話を総合してみると、明治の中程(1880年頃)から大正の後半にかけて樅木かぐらの大夫としてその伝承に尽力したと伝えられる木村乙次郎氏が「自分たちより二代程前から樅木かぐらは舞われていた。」といい伝えたという。乙次郎氏が三代目なら石本一雄氏が四代目の大夫、黒木清盛氏が5代目、6代目が現在の黒木実男氏ということになり樅木部落でかぐらが舞われるようになったのが江戸時代の後半(1800年頃)というから百七・八十年位経過したことになる。
 戦時中はやむなく中断されたそうであるが、かぐらに対する部落民の愛着は根強く、終戦後間もなく復活されている。
 長い年月かけて培われた五穀豊穣を祈念する農民の気持ちは一貫しており、毎年十月二十五日の村祭りには、神前にかぐらを奉納している。時代も人も変わってかぐらを舞う人が少なくなったが、保存会を結成して、小学校児童にもおしえてかぐら保存に力を入れている現状である。

----追記(H18.3.17)------------------
現在の太夫は村川千代次さんで、200年前から舞われています。
現在舞われている神楽は
「宮神楽」「飯神楽」「壱神楽」「日当て神楽」「扇」「剣の舞」「盛神楽」
「扇の舞」「柴神楽」「大神」「轟」「鬼神」「神〆」の十三番。