下岳神社/柿迫神社/栗木六大神社/板木阿蘇神社/保口若宮神社/樅木神社 |
下岳神社 | ||||
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下岳神社/柿迫神社/栗木六大神社/板木阿蘇神社/保口若宮神社/樅木神社 |
柿迫神社 | ▲ | |
一、伝説と由緒 三王権現と称し、創立年代は不祥なれど、室町時代の末期と思れる。天正十六年(一五八五年)宇土城主、小西行長により釈迦院焼打の際焼失されたという、その後文化文政年間に再建されたものである。 尚、この神社の外、各小村には若宮神社、大明神、妙見社、菅原神社、山神社が建立されたと由緒にある。 二、鎮座地 泉村柿迫字上村四八三○番地 境内地 三九、○六八平方メートル(一一、八三九坪) 三、祭 神 素盞鳴尊(すさのうのみこと)、伊弉諾尊(いざなみのみこと)、大年命(おおとしのかみ) 、櫛稲田姫命(くしいねだひめのみこと)、大山咋命(おおやまづみのみこと) 、大国主命(おおくにぬしのみこと)以上七体である。 四、御神体 大山咋命 五、祭 礼 祭日は一定の時日なく、毎年陰歴十一月申の日、十一月申の日が二回あるときは初めの申日、三回あるときは中の申日に定まる。 六、建築内容 本殿は破風造りで、拝殿、幣殿、神殿、社務所、神饌所に分かれ広さは次のとおりである。 拝殿 間口 6m 奥行 4m 幣殿 間口 4.1m 奥行 3.2m 神殿 間口 5m 奥行 3.2m 社務所 間口 10m 奥行 6m 神饌所 間口 3.4m 奥行 3.1m 文化財保護委員 喜代門 徹昭 (記) |
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栗木六大神社 | ▲ | |
一、伝説と由緒 人皇十二代景行天皇の御代(三九一頃、大和時代)に矢山岳の中腹に創立されたと伝えられる。この大和時代は、氏神崇拝の信仰が、全国的に広がり、一集落中心に氏神社建立が行われた時代でもあった。其の後室町時代の末期、天正十六年(一五八五)宇土城主、小西行長の釈迦院焼打の際焼失されたという。一説によれば行長は高村の上(昔日当は高村といった)の入口、日当上、寺屋敷にあった釈迦院七十五坊の一寺と云われた寺院を焼打し、その足で神社も焼失させたという。 其の後江戸時代の初期、加藤家より再建されたが、文化十年(一八一二)五月十八日現在の六大神社が改修されたものである。 尚この神社の境内には、熊野神社があったとの由緒にあり、村人はこの社を権現山と称し、その呼び名で通ってきた。推定するに、六大神社と熊野神社は、槽現宮が先に創立され、その後六大神宮が建設されたのではあるまいか。今はこの権現宮が社の何処に剣立されていたのか、その痕跡さて見当たらない。 二、鎮座場所 泉村大字栗木字日影二、四二一番地 境内地一一、二二○平方メートル(三、四00坪) 三、御神体 御神体は三体で、男性神二体、女性神一体いずれも座像、木像着色の御神体である。外に白石三個が備えてある。 尚御神器として、まが玉一個、小刀一振、鏡二個、神前に飾られている。 四、祭 神 瓊々杵尊、木花開屋姫(明細帳には大花とあり)、菊理媛命、彦火々出見尊、速玉男命、事解男命 五、祭礼と行事 祭礼の期日は、旧九月二十九日であったがその後春秋の彼岸の中日と十二月の卯の日の始めと決まっていたが、現在は宮司の都合もあって、春秋の彼岸中と、十二月第一番目の卯の日とされている。 又行事は、昭和の初期までは、川俣村より宮司四名が参上、笛、太鼓で神楽の舞が奉納されていた。 当日は出店、相撲等が催され、近郷よりの参拝者も多く盛大であったが、現在は参拝者も少なく、子供相撲のみが昔のおもかげを残している。 六、建築内容 本殿は破風造り、神殿、拝殿、幣殿、社務所にわかれ、神殿は欅材、拝殿、幣殿、社務所は杉材を使用し、屋根は従来茅葺きであったが、昭和四年十二月神殿を赤鋼板、拝殿、幣殿、社務所を瓦葺きに改修された。 七、その他 神社拝殿上部壁には、鎌倉時代の絵馬が十枚程奉納され、天井には山川草木の絵が描かれている。 幣殿両側には狛犬一対が安置されていて阿犬・吽犬の木造がある。又正面石段は、百十五段で途中数カ所の踊り場が設けられ、十一基の石燈篭が奉納されている。神社内には、樹齢二百年にも及ぶ杉六本、いちょう一本、樅等があり、その内杉一本は、熊本県が昭和五十七年に樹木登録第七十四号として指定した。 文化財保護委員 山本文蔵 (記) |
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板木阿蘇神社 | ▲ | |
一、由緒 創立年代は不祥なれど、昔板木村が菊地家の支配により阿蘇家の支配下になった年代、即ち室町時代の初期、明徳四年頃(一三九四)と推定される。それより何回か改築されたであろう阿蘇神社であったが、現在の建築は江戸時代の末期天保五年二月(一八三五)一五二年前改修されたものである。(参考、葉木神社も明徳四年創立) 二、鎮座地 泉村大字柿迫八九六四番地 境内地一、○二六平方メートル(三一一坪) 三、御神体 男性神一体 縦30・ 横20・ 女性神一体 縦25・ 横20・ いずれも木像着色の御神体である。 四、祭 神 建磐龍命 姫御子命 五、祭礼と行事 祭礼は旧九月二十九日に催されていたが、現在は新九月二十九日で、前夜祭の二十八日夜は氏子一同集まり、宮司により御祓の行事の後宴会が催される。 六、建築内容 拝殿 間口 5.5m 奥行 3.65m 幣殿 間口 1.6m 奥行 3.15m 神殿 間口 3.75m 奥行 3.75m 建築は破風造りで、杉材を使用し屋根は昔は茅葺きであったが、昭和になってからトタン葺きに改修された。 七、その他 イ 拝殿の天井には、六十四角内に山川草木が画かれ、江戸時代の末期より明治の初期に奉納された古い絵馬が数点ある。 ロ 社内には樹齢二百年以上にも及ぶ栂(とが)の樹二十数本、杉、松の神木があり、神社としての雰囲気十分である。 ハ 板木内にはこの外、熊野神社が鎮座されている。(柿迫八八五六番地)この神社の創立年代も詳細でない。熊野神社は通称天満宮と言われ、祭神は菅原道真公である。推定するノ、阿蘇神社と熊野神社は創立年代はどちらかと言えば、熊野神社が古いように考えられる。又この神社には、御神体一体が合祀されて村人は「おぎお人様」と呼び同じ神殿に祀られている。 文化財保護委員 山本文蔵 (記) |
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保口若宮神社 | ▲ | |
一、伝説と由緒 創立年代は、室町時代の初期、応永年間(一四00年、五八六年前)創立されたと伝えられる。始め、鬼山御前、若宮神、健磐龍命を祀りたるも、阿蘇家の支配下になりたる時代、天満宮(菅原道真公)を合祀されたという。 伝説によると鬼山御前は、もと平家の官女で、弟久茂と岩奥に住みついていたが、平家追討の第二陣、那須与市の嫡男は岩奥を通過し保口に達したその時、鬼山御前も後を追い、保口に共同生活する内、夫婦となり保口で一生を終わったという。 肥後国誌に日く「源平合戦の際那須与市の一族に鬼山御前と称する女当地に在住云々」とあり、平家の官女が源氏姓になったという。現在保口の那須姓は与市の子孫と伝えられる。 二、鎮座地 泉村柿迫保口八八三七番地 境内地 六九九平方メートル(三一二坪) 三、御神体 男性神二体 健磐龍命、菅原道真 女性神二体 若宮神、鬼山御前 の四体でいずれも木像着色の御神体である。尚、保口には、日本に三巻しかないと言われた鬼山御前の肖像画の掛軸があり、これは保口部落にとつては、御神体以上の文化財的存在であり、先祖代々の家宝として保存されている。 四、祭 札 祭礼の期日は、十月十四日が鬼山御前の祭礼で、十一月十五日が若宮神の祭礼で、いずれも氏子一同神社参拝する。 五、建築内客 拝殿 間口 5m 奥行 5m 幣殿 間口 1.5m 奥行 3.5m 神殿 間口 3.6m 奥行 3.6m 神殿その他の建築はすべて杉材を使用し、屋根はトタン葺きである。建築年代は不祥なれど、現在の建築は江戸時代の末期と推定される。 六、その他 拝殿には、江戸時代より明治初期に奉納されたと思われる絵馬多数があり、神社周囲には、老木も少なく孟宗竹が群生している。尚、鬼山御前の墓は神社下方にあり、現在の石碑は、明治三十三年に再建されたものである。 文化財保護委員 山本文蔵 (記) |
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樅木神社 | ▲ | |
一、伝説と由緒 神社の創立年代は詳かでないが、菅原道真公の子孫と云われる旧仁田尾村、左座氏の弟左座次郎の勧請なりと云伝えられている。 この地域には、外に春日神社、山神社、熊野神社、白鳥神社の四社がある。 二、鎮座地 泉村樅木 1番地 境内地 四、二九三平方メートル(一、三〇一坪) 三、祭 神 菅原道真、 比咋神 四、御神体 菅原道真(木彫り) 五、祭 礼 祭日は十〇月二十五日、五穀豊穣を祈念するこの祭りは、江戸時代の後半(1800年頃)から伝えられたという樅木かぐらが奉納される。 六、建築内容 拝殿、神殿に区分され、広さは次のとおりである。 拝殿 間口 4m 奥行 5m 神殿 間口 8m 奥行 8m 神殿は、昭和十二年、拝殿は、昭和五十五年に夫々改築されたものである。 --追記(H18.3.17)---------------------- 神殿は、平成14年5月に地域の方々の手によって改修されました。 |